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生きる意味

今日は、重いタイトルになりました。この年になると、どうしても「生きること」「死ぬこと」を考えざるを得なくなる。
わたしが、大学をでて、40歳になってから、日赤の看護大学に入学して、2年目に夏休みのレポートに、「生きる意味について」ということを書いた記憶がある。その当時は、何もハンデキャップがあるわけでないし、さほど辛いこともなかった。生きる意味とは、ほど遠いレポートになったのではないかと自分を愚弄する。



 ヴィクトール•フランクルの「夜と霧」を読んで、「生きる意味」について書いた。その当時の、わたしにとっては、衝撃的なドキュメンタリーだった。閲覧注意!です。フランクルは、すでにガス室に送られた妻や、子どもたち、両親をおもいながら、彼は、極限に追い詰められた人間を、事細かく入念に客観的に観察していった。

 強制収容所を転々と移動するたびに、彼らのおおくは、次第に絶望的になり動物のようになった者もいた。そして最後の行き先である「アウシュビッツ収容所」に着くと、もう気力も生きる意欲もなくしていった。

 これは、何を意味するかとフランクルは、考えた。人間は希望を失うと、生きる意欲もなくなる、ということである。今の物質主義的な日本では、あたりまえのように、思うかもしれない。実体験をしてないからだ。何もかも奪われ、死を眼前にしたとき、人間は、平静でいられるんだろうか。たまたま、フランクルは、医師であったがために、少しばかりの優遇は受けたかもしれない。死刑執行とは、わけが違う。なんの罪もない、ユダヤ人、あるいは、ナチスに反する民族、反ナチス、同性愛者は、全て抹消されるのだ。多くのホロコーストによる被害者たちは、絶望の淵に追いやられたのに違いない。

 「生きること」とは、その絶望を乗り越える人間としての、最も崇高な希望を持って時をすごすということ、と私は考える。生きることの意味は、多くの哲学者たちが、古今東西考え続けているが、答えはない、のだ。ドイツのハイデガーは、死の哲学者と言われ、「死を意識するからこそ人生は輝くのだ。」と言っている。しかし、これだってある者にとっては、疑問に思うかもしれない。
 なぜなら、人間は、それぞれ違いがあるからだ。賢人もいれば、凡人もいる、障碍者もいれば、健康人もいる。答えは、ない。

 ただ、どんなに辛い状況におちいっても、治る見込みのない死の宣告を受けても、あるいは、すべてを失い、文無しになっても、絶望を乗り越え、一日、一日を懸命に生きていくことが、希望につながるかもしれない。r>
 付け加えるとしたら、絶望の淵に立たされたときこそ、神に委ねることしかないのだ。信仰とは、人間の為の倫理的な戒律である。それが、神からの憐れみであり、愛だと思っている。人間には、どんなに頑張っても限界がある。

 限界を乗り越えることは、絶対にできない。どの宗教でも人間の生き方を律法的に定めている。限界まで、来たときの心構えだ。それを失うと、自死しかないのだ。

 「生きる意味」は、単なる快楽的、刹那主義的なものではない、と私は思う。そして、その意味を見出すものが、宗教だとも思ってない。答えはないからだ。

# by womanofbethany | 2018-08-31 16:53 | 日常のこと

更級日記

私には、86歳の母がいる。小学校の教師を30年務めた。父が死んでなんとなく、言動や行動がおかしくなってきた。近くに住んでいたので、毎日食事を持っていくと、私が昨日持っていったおかずを、誰かが持ってきたおかずだから、私にもっていくように、と言う。                            すぐに病院へ連れて行った。軽い初期のアルツハイマー型認知症だった。「老い」とは、こういうことか、とその頃は少なからずショックだった。                        高2の古典の授業の「更級日記」のなかで、(更ぬ別れ)というところがある。人はいつかは、別れる時がくる。それは、決して避けられないことである。ということと記憶している。       私は母とも必ず別れなければならない時がくることに、恐怖を覚えた。その場面を読むたびに、悲しくなり、涙した。       
若い頃は、生きること、死ぬことには、関心がなく、それぞれに勉強にスポーツにと、若者らしくその日その日をいきているのが、あたりまえである。その時の自分もまた高校生として、楽しく部活動や勉強に励んだものである。 そんななかで、「母との別れ」があることを知り、ハッと現実にかえるのである。今までの高校生活は、何なのだろう、と振り返らざるを得なくなるのである。現実が、虚しく、また将来の夢との狭間にギャップをかんじるようにもなる。まさに、悩み多き青春である。進学という現実と向き合いながら、いつどのように母と別れるのか、などど器用に考えることなどできなかった。このことは、ずーっと後々まで、引きずった。 母は、必ずしも私にとっては、大好きな愛する母ではなかった。むしろ仕事ばかりして、母親らしいことをしてくれない、とかなり批判的に母を蔑視していた。                  それでも、長い年月を通して、母は、自分なりに精一杯子供を育てたんだことを知った。今の自分の存在があるのは、母のおかげである。                            今は、母親は楽しかった若い女教師だったことしか記憶にない。彼女にとっては、なにより素晴らしき人生である!それでも、「更級日記」の話をすると、私に丁寧に古典文学をレクチャーしてくれる。幸せな、母だ。
# by womanofbethany | 2018-08-26 15:55

入院

 毎日体調が思わしくなくて、座ること、立つこと人間としての基本的な動作ができなくなってきた。もちろん歩くことはほとんどできない。発症から、1.5年たつのに治療のめどさえ立たない。痛みも激しい。体中痛い。でもしかたない。この状態で生きることしかできないのだ。

 来週は、医師のすすめで入院することになった。私にとっては、入院は、ほとんど2.3年おきにしていることだからべつに大変なことだとは思ってはいないが、入院生活は、退屈で自由がないので気ままな私にとっては苦痛である。

 ということでこのブログも1か月くらいは、書くことができない。スマホでも書きたいのだが、そのすべをしらない。
このブログを見ている人はいないので、独り言のようなものであるが、それでもわたしは自分の証として書いていきたい。誰の目にも触れられず。人に見せるために書いているのではない。自分の記録である。


 巷ではスピリチュアルだとか、真理、神といった言葉があふれかえっている。1950年代では、全くそういった言葉は、日本では聞くことがなかった。高度成長期に生きてきた人間は、70歳を超えている。そのころは、アメリカの家庭生活に日本人はあこがれていた。電気製品があふれ、便利な生活、便利な物質。それから、人間は、精神的に成長してきている。だから魂の救済だとか、生きること、死ぬことについて信仰書のようなものが次々とでてきている。こうして成長していくんだと、思う。どこの宗教がいいだとかこの宗教でしか、救済はできないとかと、宗教に固執している限りは、他人への攻撃になってしまう。

 心のよりどころとしてどの宗教でもいい。この物質界で生きている限りは、物質を頼っていても「愛」だとか「赦し」だとかにこだわって生きていくしかない。

 

# by womanofbethany | 2018-08-17 10:35 | 病気のこと

自然療法

治療を中止してから、3か月たった。少しは、ぶり返しが来ている。久しぶりに担当医に診察してもらった。「アクテムラ」を試してみようということであったが、たまたま、その日は関節を見る超音波があって、親切にもその女医先生は、私の手首を超音波で見てくれた。私は、リウマチ用の超音波の医療器材は、いくら大学病院とはいえ、ないと思っていた。今年4月にやっと導入してもらったと彼女は喜んでいた。

 それにしてもひとりで舞い上がっているのかどうかわからないが、この超音波で見てもらえるなんて「奇跡的」としか言いようがない。私のリウマチはかなり活動性の高いしつこいたぐいだから、1年以内には、関節の変形が考えられる。だからバイオ先行でやってきたわけだが、とてもではないが、あの恐ろしい副作用には勝てなかった!抗がん剤と同じである。超音波で自分の関節がどうなっているかを見たかった。だからこの日は私にとっては神の手が触れられたとかいいようがない。


 結果は、関節の炎症はそれほどひどくはない、ということで「アクテムラ」は使わない、ということだった。神は、やはり私に触れられた。確信した。偶然でもないし、たまたま運がよかったわけでもない。
  
「エンブレル」「オレンシア」  すべて副作用が強すぎて私には合わなかった。
 先生は、普通の患者はそれなりの効果があり、私のような副作用の出る人は、ほとんど見たことがないそうだ!このような、バイオ製剤は人のたんぱく質でできている。バイオ製剤には3種類ありそれぞれ働く機序が異なる。炎症にかかわるサイトカインを標的としている薬だ。T細胞を抑制するもの、TNFを阻害するもの、IL-6の働きをふせぐもの、である。

 この結果を聞きバイオも使わないことを聞くと、私は神に感謝した。たとえ、一生歩けなくてもいい。身体障碍があっても幸せだ。痛みや苦しみがない生活がどれほどしあわせか。

 いままでのとおり、自然療法でリウマチに向き合おう。いや、頑張らなくていい。今までは自然療法と言っては構えて頑張りすぎた。

神は、頑張れとは言ってない。神に対して素直に従順に純粋に生きていくだけだ。頑張らなくていい。すべてをゆだねるとは、神の大きな人類への愛をいただいているからこそ、できることなんだと改めてそのことに気付く。
神がいかに人類すべてを愛で被い、良きことも悪しきこともすべてのことを見ていてくださるかわかる。

 もう少し語りたいところだが、じぶんのつたない知識と能力では、とてもたちうちできるものではない。今日はこのへんで。




# by womanofbethany | 2018-08-11 17:33 | 神さまのこと

イリス

イリス_b0392826_10013835.jpg私は、ポメラニアンを飼っている。「イリス」という8歳の女の子である。
この子は、7か月で、我が家に来た。

大学生のころマルチーズを買ったことがあるが、飼い方を知らず
しつけできず、わがままいっぱいになり、実家に預けたが、間もなく道路に飛び出してトラックにひかれて死んでしまった。
今でもあの時のことを思いだすと、かわいそうで、悔やまれる。


ほかの愛犬家同様、私もかなりの「自分の犬だけがお利口で、かわいい。」である。
犬を飼うまでは、犬を飼っている人の気持ちがわからなかったが、いざ飼ってみたら、イヌきちがいになっていた。

この子は本当におとなしい。ポメラニアンなのに、吠えることが全くない。なにをされても平気な顔をしている。

お留守番させても、じっと主人を待っている姿を見ると「本当にこの子は特別だ。」とさえ思えてくる。

ここまでくると、かなり重症だ。


こういった、動物にもそれなりの魂はある。感情もある。

この子との生活もいつ終わるかわからない。必ず生きものは死ぬ。イリスが、私たちに癒し、従順、忠実さを与えてくれている限り私もまた、この子にたくさんの愛と感謝を注いであげたいと思う。





# by womanofbethany | 2018-08-04 10:17 | 愛犬のこと